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- 新田(中世)とは
「新田(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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新田(中世) 戦国期に見える地名摂津国武庫【むこ】郡・河辺郡のうち現在の尼崎市大庄地区の南部(旧大字東新田・西新田)・本庁地区南部(旧大字竹谷新田)にあたる河辺郡と武庫郡の郡境となる蓬【よも】川の右岸部「細川両家記」によれば,永正16年11月細川澄元は四国・淡路・播磨の軍勢を集め,兵庫浦に到着,敵対する細川高国の部将,越水城にたてこもる河原林(瓦林)正頼を1万余騎で包囲した高国は救援のため池田城を本陣とし,「小屋・野間・九十九町・高木・河原林・武庫・寺(守)部・水堂・浜田・大島・新田,武庫川のかた上から下迄陣を取つゞけ,折々合戦させられたり」と2万余騎の大軍で澄元勢を圧迫したという(群書20)九十九町・高木・河原林の3地点は現在の武庫川右岸であるが,他の陣地はすべて左岸に位置している「公方両将記」でもこの合戦を「池田城ニ赴キ,越水ノ城ヲ後詰シ給フ,其軍兵等小屋(略)新田,武庫河上カラ下迄透間モナク陣ヲ取ル」と記す(続々群4)翌永正17年2月には澄元方の三好之長が難波(尼崎市)へ陣取り,「此外小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取」って軍勢を配しているが(細川両家記/群書20),これらはいずれも現在の尼崎市域のうち,蓬川の上流から下流にかけて広がっている以上から新田は武庫川尻に近い場所から,蓬川に近い所までを含んだ地名であることがわかるのち武庫川よりは西新田,蓬川よりは東新田として集落が二分した地名は,武庫川・蓬川河口から海に流入する土砂がつくる砂州の内側を新田開発したことによるなお,江戸期の寛保年間萩藩主毛利氏帰国の際の道中絵巻「行程記」にも蓬川の左岸を「難波村」,右岸を「新田村」としている後世の作とはいえ,古称を踏まえているのではなかろうか江戸期元禄14年大和川改修絵図には竹谷新田に「新田」と単称された小村が描かれている(大阪府立中之島図書館蔵) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 戦国期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 鎌倉期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 戦国期に見える地名刈田【かつた】郡のうち「内閣文庫蔵高目録帳」刈田郡に「新田 二百五十一石一斗二升」とあり,天正19年以降は蒲生氏郷領で蒲生源左衛門尉郷成の知行地慶長3年上杉景勝領となった「天文段銭古帳」の「下にい田」に当たると考えられる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新田(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」